

枝豆は、未成熟大豆のことで、種子が未熟なうちに収穫されます。この時期の種子は糖分や遊離アミノ酸の含有量が高まり、優れた食味を出すのです。枝豆を食べる習慣があるのは、主に関東から東北、北海道の地域。そこでは在来の枝豆品種が栽培されていることが多いのですが、鶴岡で作られていたおいしい豆は、酒田方面の人にも「鶴岡豆」と呼ばれ珍重されるほど、広く知られた在来野菜の代表選手でした。その豆こそが「だだちゃ豆」なのです。
鶴岡市だだちゃ豆生産者組織連絡協議会とJA鶴岡では、「だだちゃ豆」として取り扱う枝豆系統は10系統(※1)とすることを決めました。豆の品質も統一するため、原種の種子を一元管理。JAに出荷する農家は種子をJAから購入するシステムを作っています。ただ、独自の販売ルートを持つ農家もあり、味や形質は少しずつ違うものもあるそうです。



鶴岡でのだだちゃ豆栽培の本拠地として有名なのが白山地区。土の中に豆のおいしさを引き出す成分が含まれていて、それが甘みや旨みの強い、おいしい「白山ダダチャ」を作っているのです。白山で採れただだちゃ豆の種子をよそに持っていって栽培しても、同じようなものができないのだそうです。
白山ダダチャのルーツは、今から100年前の1907年(明治40年)に、白山に住む森屋初(1869−1931)という女性が、隣の寺田地区から持ち込んだ「娘茶豆」の中から、「藤十郎ダダチャ」と呼ばれる系統を選別したのが始まりと言われています。「藤十郎」は森屋家の屋号でした。当時からこのあたりでは、豆の選別は女性が行い、おいしい豆ができると分け合ったりして、栽培技術や品質の向上に努めていました。初は、その年に植えた豆の中から、明らかにほかと形が違い、食べてもおいしい種子を選り分け、数年かけて種子を増やし、食味などが安定してから近所に分けたと言います。
だだちゃ豆など在来野菜に詳しい山形大学農学部の准教授、江頭宏昌(ひろあき)氏は、だだちゃ豆がおいしい理由に、2粒莢(さや)の出る割合が、ほかの枝豆よりも多いことを挙げています。1つの莢に入っている豆の数が少ないと、その分旨みが凝縮され、おいしくなります。1本の枝になる豆が2粒莢が多いほど、その豆は「おいしい」と感じられます。
白山地区をはじめ、従来から枝豆好きの鶴岡の人たちは、おいしい豆を作るため、来年植える種子には2粒莢のものを選別し、増やす努力をしてきました。2粒莢だと収量は少なくなります。それでも「おいしいものを食べたい」という当時の人たちのこだわりが感じられます。また、おいしいものをおいしいと感じる味覚も鋭かったのでしょう。その努力が、今日全国的にも有名になった「だだちゃ豆」のおいしさを作り出してきたのです。
白山の女性が100年前に栽培した、この「藤十郎ダダチャ」の親である「娘茶豆」は、鶴岡市の小真木地区で栽培されていた「小真木ダダチャ」の系統で、さらにさかのぼると「八里半どう豆」に行き当たります。
この「だだちゃ豆」の名前の由来で定説となっているのが、明治の後期から大正初期にかけて小真木に住んでいた太田孝太という人物が、酒井家に自分の家で作った枝豆を献上したところ、とてもおいしかったので、時の当主だった酒井忠篤(ただずみ)公が「あの小真木のだだちゃの豆が食べたい」と言ったことから、というもの。「だだちゃ」とは、庄内地方の方言で「主人」「お父さん」を意味する言葉です。
孝太は、父親の五十嵐助右衛門(※2)の代から受け継いで、熱心に枝豆を作り、品種改良にも努めていましたが、献上したのは八里半どう豆を改良したもので、それが小真木ダダチャの始まりではないかと、前出の江頭准教授ら研究者は考えています。その時期は、孝太の子孫の方の記憶などから、明治の後期から大正初期にかけてのころとされていて、それがだだちゃ豆の始まりと言われてきました。しかし、近年、江頭准教授らの研究で、だだちゃ豆が登場したのは明治の中期までさかのぼれるのでは、という新説が出されました。



八里半どう豆は、江戸時代末期の古文書「みやげつと」や、明治の中ごろに書かれた松森胤保の「両羽博物図譜」にも登場します。59巻ある図譜のうち、豆が描かれているのは最終巻の59巻目で、これが発表されたのが明治17年(1884年)。「八里半」と描かれたその豆は茶色の種子で、それと似たもので「タタガ豆」という豆も描かれています。
この豆の存在に注目したのが、荘内日報論説委員で、在来野菜にも詳しい松木正利さん。明治のころは、カナの濁点を省略して表すのが一般的だったので、これに濁点をつけると「ダダガ豆」、つまり「ダダ(主人、お父さんの方言)の豆」と解釈できる、胤保が図譜を著した明治17年には、すでにだだちゃ豆の原型ができていたのでは、と仮説を立てたのでした。酒井忠篤(ただずみ)が家督を継いだ(2度目)のが明治13年(1880年)、28歳のことでした。しかし、孝太は当時20歳。「ダダ」と呼ばれるにはまだ若かったので、「タタガ豆」が孝太の豆ではなかった、と思わざるを得なかったのです。
ところが、最近になってある人から、「ダダの豆」と言ったのは、孝太の家、つまり枝豆栽培で有名なダダ、助右衛門のところの豆を食べたいと言ったのではないか、と指摘を受け、「目からウロコが落ちた」と江頭准教授。そのように考えれば、そのころすでに小真木ダダチャの原型を栽培していた孝太の家で、家督を継いだばかりの忠篤においしい豆を届けたいと願い、献上したということはありえるでしょう。忠篤が家督を継いだ明治13年から、松森胤保が図譜にタタガ豆を描いた17年の間に、だだちゃ豆の原型となる名称が存在したという説が信憑性を帯びてきます。
江頭准教授は、「殿様が一般市民に、敬称でもある“チャ”をつけて呼ぶことはないので、“ダダチャ”と言ったのは、お付きの人であると思われる。だだちゃ豆の見た目の茶色とも掛けた、いいネーミングだと思う」と話しています。
ネーミングの由来には、もう1つ「伊達の茶豆」から名づけたという説がありました。しかし、福島県の伊達地方に伝わる豆と鶴岡のだだちゃ豆では、科学的にも親類関係にはないことがわかり、「この説はあてはまらない」(江頭准教授)としています。
「だだちゃ豆のルーツは明治中期までさかのぼれる」と新説を提唱した松木さんは、民間でだだちゃ豆栽培し、研究している1人でもあります。20数年前から家庭菜園という趣味の範囲で枝豆を栽培していました。本格的に種子の選別や多品種の栽培を始めたのは15年ほど前から。それ以前はダリアの研究に打ち込んだ、ダリアの権威でもありました。栽培した豆は山大農学部の教授らの協力で、甘みを判定するスクロース値や旨みを判定する遊離アミノ酸の含有量を調べたり、「食べ比べ会」を主催するなどして、研究者と生産者、食通の人たちに成果を披露するなどしてきました。
松木さんの畑には「藤十郎ダダチャ」のほか、氏の名を冠した「松木ダダチャ」や、幻のダダチャといわれる「細谷ダダチャ」、晩生の緑豆の代表格「彼岸青」など、300株あまりの枝豆が栽培されています。昨年は「甘みも旨みも最高で、おいしい豆が食べられた」と話しています。また、「白山の栽培農家の方が、自分のところで栽培したと、“湯上り娘”という娘茶豆の系統の豆を持ってきてくれたことがあった。それも、なかなかおいしい豆だった」と良食味の豆への思いも人一倍。自宅で栽培しているのは晩生豆が多いので、9月いっぱいは枝豆に囲まれた日々が続きそうです。